「プレパラート」展 総評

 

記 2008年1月15日〜


総評

岡田のメモに発熱という言葉があるが、ぴったりの表現だと思う。私たちは熱病に取り付かれた様に、目の前で起こった現象を観察した。
今回のコラボレーションは大成功だったと思う。良いとか悪いとかその様な事と無関係に「凄い物を感じた」展示となった。私たちは二人でコラボレーションしたのではない。私たちは蔵とコラボレーションしたのだと思う。蔵の存在が私たちの作品を受け入れ、最高の環境を提供してくれた。それは空気だったり、静寂だったり、夕日だったり、いろいろと形を変えて、私たちの作品と共に在ったと思う。

田村 秀夫

 


概要
 

名称 

「プレパラート」展

開催場所 

埼玉県入間市 石川洋行 蔵

平均鑑賞滞在時間 

745.64秒

最長鑑賞滞在時間 

271秒

最短鑑賞滞在時間 

1382秒

アンケート結果 
1月27日 
 
 
 

性別 年齢 何処から来ましたか?

展示の印象 甲斐があったか etc

総合的な評価

田村の作品に対する印象
岡田の作品に対する印象
アンケート雛形

 

なぜ蔵を利用したか

会場は埼玉県入間市の築九十余年の日本式倉庫、通称"蔵"(明治時代に倉庫として作られた。一般的な蔵(土蔵)とは違う構造であり、文化財としての価値も高いと思われる。)を使用した。蔵は3層構造で3階のスペース(約100畳)全てを展示に使用した。展示場の定員を一人とした為、2Fのスペースを待合室とした。

今回の展示に蔵を使用した理由は2つある。一つは「人生いろいろ下心」の繋がりから容易に借りる事が可能だった事。二つ目は、会場の広さと落着きである。特に二つ目の要素はこの展示を成功させた大きな要因の一つだと思う。都心でこれだけのスペースを占有することは不可能に近い。

岡田 洋平

昨今では、旧工場や廃校舎、酒蔵などで作品展示をするということが増えてきている。
特に、現代美術というジャンルではこういったロケーションを使用することは盛んであるらしい。
今回、実験的展示を行う場所がこの築九十年の蔵になったのは、以前に私達が参加している「人生いろいろ、下心」というアートグループが、この場所で作品展示を行った際に知ったからで、事前に綿密な調査があったからと言う訳ではない。
かねてから、田村さんとコラボレーションを互いに考えていたのだが、それを実際に展示する場所として、納得のできる場所がなかなか見つからなかった。
どこかのギャラリーや、お寺の本堂、市民会館のフリースペース等、多数の案は挙がったが、決め手になるような場所にはならなかった。
そんな折、一昨年の「人生いろいろ、下心2006展」で、この「蔵」に出会えたのは僕等にとって幸運と言える。
築年数一世紀弱を誇るこの蔵には、その重ねてきた時間から圧倒的な存在感を醸し出している。しかし、その佇まいには重圧を感じるような重々しさとは程遠いような静寂を感じた。(?)大きな時の流れをその身に溶け込ませてきたこの建物には、時代の流れとその背景を創造させるようなドラマ性も含んでいる。
このような特性を持つ建物にはそうそう出会えることはない。
僕達は、そういった流れでこの「蔵」を会場として選ぶことにした。 

P1030093.JPG
会場の蔵


アンケートで頂いたコメント
 

もちろん作品が素晴らしいのですが、でもさらに空間が作品をひきたてていました。

あの音ってたまに部屋で聞こえてくる音に似ててなんだかおちつくというか、集中できるというか不思議でその音と蔵と銅作品の絶妙なコラボがよかった

空間と 音と 立体と の 共鳴。 すばらしかったよ。

溶け込みました。あそこにあった全部の要素が交じり合って自分もその一部みたいな感じがしました。

がんばれー

時間の経過とまったく別の次元にいるようでした。

正弦波だけというのが人によっては鼓膜に辛いものがある。

ごめんなさい。コラボ見てないので何もいえない。

訪れた俺と、蔵と、作品とはまったくの他人で、日時計の時間感覚で仲良くなって行く、まったく未知の空間に新鮮な恐怖を感じた。

良かったです。

次もがんばれ

次の挑戦がどんなものか楽しみ?


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壁を眺めることでプレ展の色彩を見る事ができる。


「プレ展」を通じて得たこと。

正直に言って、今回の展示は今まで僕がやってきた中で最高の成果を得られた気がする。

最初、田村さんの音だけの展示会場に入った時、築90年という蔵が持つ圧倒的な空間に於いてはもう十分に対話ができるじゃないか!別に僕の作品がなくてもいいんじゃないか?と思った。田村さんの装置が発する音は、その音の中に静寂を感じさせるもので、音が鳴っているほうが静かな印象を受ける。2分そこに居るだけで別空間に来たという気分になった。とても居心地が良いのだ。 だから、僕はこれで十分だと思った。

けれども、7日。
僕の作品をその音の中に置いた途端に、空気が変わった。
蔵の西側から差し込む日光が、僕の「M」を包む。朝から昼過ぎには、爽やかな光がその体を照らす。ぼんやりとした光にぼんやりとした音。 居心地の良い空間に女性の形をした像が座っていて、ある人はそれに懐かしさを感じ、ある人は恐怖を感じたという。 哲学的な物思いにふけこむ人もいたし、眠ってしまいそうだという人もいた。 この時間帯に来てくれた人はとても多くて、たくさんの感想を書き残してくれた。

そして、夕暮れ。
僕が感じた、最も綺麗で、最も寂しかった瞬間があった。 強い夕暮れの光が差し込む。ぼんやりとした光は一筋の線に変わり、「M]の体を突き抜けるようにして、その体を輝かせた。 その瞬間は来場していた全員で見たのだが、ある人が「弥勒菩薩みたいだ」と言った。 籠のように作った「M」の体は、強い夕日の光に乱反射して、背後の壁に光の筋を映す。後光が射しているように見えた。 日が沈むにつれて、夕日の光線は短くなり、その光が徐々に薄くなっていく。 僕は寂しくなって視界が滲んでしまった。太陽に行ってしまって欲しくないと思った。

今回の展示は実験という名目で始まったのだけれど、モニターになっていただいた方々に、たった一人で暗いあの部屋に入ってもらい、後に感想をレポートしてもらうという形を取ったことは本当に正解だったと思います。 皆さんに撮っていただいた写真や、書いてくださったレポートは、今回の展示から生み出された結果そのものであり、宝物です。 遠いところをお越し下さった皆様、ご協力本当にありがとうございました。

田村さん。 本当に感謝です。あの音がなければ僕の作品にあのような効果をもたらすことはなかったと思います。 「音」という目には見えないものだとしても、あの場を体験した人達は、あの音が必要不可欠なことをもう知っています。

音の揺らぎは、歌声になりましたね。

岡田 洋平


「プレパラート」展を振り返って

今まで、グループ展には参加したが、一人または二人の少人数での展示は初めてだった。岡田さんは若いにも関わらず、既に7月に横浜での個展を成功させていた。私は、正直ドキドキもので、装置が暴走したら、途中で止まったらどうしよう、と非常に心配な状況だった。

前半の7日間は私一人で蔵を占有しての展示だった。私の作品は音だけなので、蔵の中には椅子が置かれていただけだ。岡田さんの「M」が加わる前日、中島さんと夕日が蔵の窓から差し込む光景と、揺らぎ音を鑑賞した。意図通りの揺らぎと、静寂と、蔵の匂いと、陰影と・・・喜怒哀楽とは無関係の揺らぎ音、私の考える本当のやすらぎ。
一応、意図は達して、成立していたように思える。

ところが、翌日「M」が展示に加わってから状況は一変した。音は、完全な背景から「M」の歌声に変わったり、ありもしない幻聴だったり、浮遊感や、不安、快楽、と喜怒哀楽を感じさせる様に変化したのだ。おまけに、蔵の夕日の演出が加わり、展示は前日とは全く違うモノに変化した。この変化は劇的で、前日の「死の安らぎ」から「生、喜び」への変化となった。当初予想されていた、定員一名という演出による弊害は全く無く、予想以上の結果が生まれた。

それにしても、「M」の存在感は凄い。不思議な事に、質量や熱や気配を感じさせる。きっと触ると柔らかいだろう。
(特に足が綺麗。私は足フェチではないけど・・・とにかく綺麗。男性は嬉しいと思う。女性は嫉妬だろう。)

田村 秀夫


岡田メモ


作品展示の上で、その作品に対して鑑賞者の感じ取り方はどんなものか?

展示の度に、作品と作家、作品と鑑賞者、鑑賞者と作家の相対性について考えることがある。

自分は作者なので、当然作品に対しての思い入れは生じる。その作品を制作する時間がその思い入れを強くするわけだが、その時間の中には、制作当初の考えから、その途上に起こる心境の変化、実際に制作する上での技術的な苦労や完成までの達成感等を含んでいて、作者の様々な面(独自の感性や技術力、情熱)が「現在」を表現することになると考えている。そして、その作者の思い入れが作品に反映されると、作品自体にある種の温度、「熱」のようなものを持つことになると思う。

この「熱」。これは勿論、作者の側から見たエゴの塊だったりするわけだが、作品そのものが作者の中の「何か」を表現するものであるとすれば、それを鑑賞者に伝えるということが、作品を制作し、展示をするという理由の一部になるのではないのだろうか。とすれば、「熱」を鑑賞者に伝える、若しくは発生させることが展示の大きな目的になるのではないかと考えることもできる。

作家も作品も、展示に臨むに当たっては「発熱」をした状態で始まるのだが、鑑賞者は「平熱」の状態で観賞を始めることになる。(ただし、これは前持った評判が大きい場合には作用しない。宣伝がメディアを通じる等、大きいものになるほど期待という感情は膨らむ。)鑑賞者を「発熱」させるためには、作品を見ることでその個人の内から「何か」が生まれることが必要だと考える。この「何か」はその人が持つ感受性を刺激することで、それを促すことで「発熱」をもたらすことができるのではないかと考えている。

しかし、鑑賞者の温度を、展覧会場に入り作品を見ることによって「平熱」から「発熱」させるのは非常に難しいことであって、思いの外、展示会場では観賞するための障害があることが多い。美術館やギャラリーの構造上の問題、作品そのものの展示のバランス等は、展示をするに当たっては先天的な要素の強いものだが、その他に、自分以外の鑑賞者の存在による障害というものもあるのだと思う。他者が発する雑音や、動作が観賞の妨げになること(作品鑑賞の際に順番待ちを強いられることや、何気なく発言される言葉による先入観の植え付け等、心理的な障害)がことのほか多いと感じる。

作家が思う作品の鑑賞とは、先にも述べたように作品の「熱」に対して、鑑賞者が何らかの反応を起すことが大事である。その為には、作品と鑑賞者の絶対的な領域を作り上げ、作品そのものとの対話、若しくはじっくりと観察ができるような空間に仕立て上げることも一つの方法なのでは、と考えた。


なぜ、体験型インスタレーションなのか?

インスタレーションとは、現代美術において従来の彫刻や絵画というジャンルに組み込むことができない作品とその環境を、総体として観客に呈示する芸術的空間のことである。 (三省堂辞典)

今回、試みたインスタレーションは上記のような設定に、「観客体験型」と付け加えるものとなった。単に作り上げた空間に誘うだけではなく、観客に「入場制限一名」「カメラ撮影」「レポート」「作家との対話」という、いくつかのルールを設けた。この中で、今回の展示で特に大きな意味合いを持つのが「入場制限一名」という規制だ。

先に述べたように、作品鑑賞の際には、自分以外の人間の存在から生まれる障害が多々起こりうる。これを排除する為に、展示会場に一人だけ、という鑑賞方法を取ることで、その会場の中で見たもの、聞いたもの、感じた事は、鑑賞者独自の唯一の体験として記憶に残せるのではないかと考えたからだ。他者を伴わないことで、人目を気にしたり、配慮をしなくて済む分、その鑑賞者の好きなように動き回って見ることができる。

そして、鑑賞者側に実際に行動を要求した条件もいくつか設けた。

  • 「カメラ撮影」
    入場前に渡したカメラで、個々人の視点から見た「プレパラート」という空間を写真として記録に残してもらう。そうすることで、十人十色の鑑賞の仕方を作家側が知りえることになり、具体的に目で見ることのできる結果を得ることができた。
     
  • 「レポート」
    入場後、待合室にて休憩をしながら、任意で感想等を表記してもらう。
    今回の「プレパラート」展では、聴覚で感じる部分も大きな位置を占めているため、写真で残せなかった感想については、レポートで述べてもらう形式を取った。
    このように、いくつかの行動を鑑賞者に役割として要求することで、この展示への「参加」を促すことになるのではと考えた。

単に見る、というだけでは、印象が乏しくなってしまう。
体験という、実際に鑑賞者にも発想や行動を要求することで、作品に対する鑑賞者個々人の、独自の自発性と感性を織り交ぜた空間とすることが、その展示の印象を強くするのだと思う。
今回の展示は、そういった体験型インスタレーションという形式の「実験」だ。


岡田洋平の独り言〜プレパラート展を振り返って〜

展示の度に僕は、作品と作家、作品と鑑賞者、鑑賞者と作家の相対性について考えることがある。

自分は作者なので、当然作品に対しての思い入れは生じる。その作品を制作する時間がその思い入れを強くするわけだが、その時間の中には、制作当初の考えから、その途上に起こる心境の変化、実際に制作する上での技術的な苦労や完成までの達成感等を含んでいて、作者の様々な面(独自の感性や技術力、情熱)が「現在」を表現することになると考えている。そして、その作者の思い入れが作品に反映されると、作品自体にある種の温度、「熱」のようなものを持つことになると思う。

この「熱」。これは勿論、作者の側から見たエゴの塊だったりするわけだが、作品そのものが作者の中の「何か」を表現するものであるとすれば、それを鑑賞者に伝えるということが、作品を制作し、展示をするという理由の一部になるのではないのだろうか。とすれば、「熱」を鑑賞者に伝える、若しくは発生させることが展示の大きな目的になるのではないかと考えることもできる。

作家も作品も、展示に臨むに当たっては「発熱」をした状態で始まるのだが、鑑賞者は「平熱」の状態で観賞を始めることになる。(ただし、これは前持った評判が大きい場合には作用しない。宣伝がメディアを通じる等、大きいものになるほど期待という感情は膨らむ。)鑑賞者を「発熱」させるためには、作品を見ることでその個人の内から「何か」が生まれることが必要だと考える。この「何か」はその人が持つ感受性を刺激することで、それを促すことで「発熱」をもたらすことができるのではないかと考えている。

しかし、鑑賞者の温度を、展覧会場に入り作品を見ることによって「平熱」から「発熱」させるのは非常に難しいことであって、思いの外、展示会場では観賞するための障害があることが多い。美術館やギャラリーの構造上の問題、作品そのものの展示のバランス等は、展示をするに当たっては先天的な要素の強いものだが、その他に、自分以外の鑑賞者の存在による障害というものもあるのだと思う。他者が発する雑音や、動作が観賞の妨げになること(作品鑑賞の際に順番待ちを強いられることや、何気なく発言される言葉による先入観の植え付け等、心理的な障害)がことのほか多いと感じる。

作家が思う作品の鑑賞とは、先にも述べたように作品の「熱」に対して、鑑賞者が何らかの反応を起すことが大事である。その為には、作品と鑑賞者の絶対的な領域を作り上げ、作品そのものとの対話、若しくはじっくりと観察ができるような空間に仕立て上げることも一つの方法なのでは、と考えた。

そういった自分なりの考えを踏まえて望んだ「プレパラート展」だったが、正直に言って、今回の展示は今まで僕がやってきた中で最高の成果を得られた気がする。実験と銘打ったこの展示で、僕が得たかったものは「来場者の反応」である。

反応を具体化する「撮影」と「文章表記」を来場者に残してもらうことで、目に見える形の反応を得ることができた。「写真」ならそれぞれの異なる視点を、「文章」なら、それぞれの言葉、文体、筆跡などからその人柄や実際にどんなことを感じたかを読み取ることができた。これらは、プレパラート展を行った上で、その一つ一つが独立した「結果」であり、貴重な体験記録として今後の活動を考える上での重要な種を残してくれたと思う。

種。作品を作り、発表する僕らにとってこんなに大事な宝物は他に無いとすら感じる。さらに、今回僕が反応として最もそれを感じることができたのは、来場者との「対話」だった。直接会話をすることで、展示を見る前のその人の表情とその後の表情を見比べ、話す言葉の使い方、間の取り方一つを取っても、それは僕達が直接に窺うことの出来る反応であり、それもまた結果なのだと感じた。

そして、それぞれの結果全てに「温度」を感じる。当初に述べた、観客に「熱」を発生させようとする試み。

僕は、今回のプレパラート展で、それを現実に成功させることができたのだと思っている。

具体的に成果を挙げるということは、アートという括りの中ではすごく難しくて曖昧な点も多い。けれども、自分の作った作品に対して、何かを感じたり、考えたり、あるいは想起することを鑑賞者に促せたということは、芸術としてではなく、「人間と人間の対話」を作り上げることができたのでは?と考える。こちらから話しかけること、それが作品というものを通す場合、言葉以上のものを含んで相手に伝えることができるのかもしれない。

今後の自分の作品を作り上げていく上で、これは重要なテーマの一つになった。さらに、このプレパラート展「作品と鑑賞者を一つの空間に」という実験から生まれた物は、「次はどうしようかな?」という子供心のような創作意欲だ。

プレパラートの上に発熱した「温度」は一つの大きな「熱」になり、また新たな発熱を僕に起こさせてくれた。この熱はJやCal等の熱量では表すことのできないもの。その熱は、これから作る作品に伝わり、観客のみなさんをまた違う形で発熱させるというサイクルを?げていけたら、それは自分が作品を作るだけの自己満足だけで終わるようなことにはならないのかもしれない。

僕にとってのプレパラートは、温度計でもあったのだなと、そう感じている。



田村メモ


蔵という大きな存在との対峙

築九十年の蔵である。内部に入ると古い建物特有の埃とカビの匂いがする。この建物は私が生まれる遥か前からここに在ったのである。入間が織物産業で栄え衰退し、戦争も見ただろうし、その後の経済発展やもろもろを見てきたのである。内部の塵はそれらの記憶が堆積したものと考えると少し恐ろしい感じがする。この中で私たちは展示を行うこととなった。もし、蔵に拒絶されたら作品の出来に関係なく失敗するだろうと直感的に思った。私は柱などに傷など着けないように、現状の物は現状のままを原則に設置作業を行った。

蔵の音響は非常に良く、適度な反響と深い静寂があった。音に関わる者としては最高の環境である。当初1W程度のアンプを使用していたが、それでは五月蝿過ぎるため100mWのアンプに交換し、更にボリュームをぎりぎりまで絞る事となった。それでも十分音を聞くことができる。


自分の作品に関して

温度揺らぎを拾い上げ、聞く事を可能にした。そこからの発見。温度揺らぎは非常に小さい揺らぎで、それを増幅し直接音の揺らぎとして提示している。人に聞いてもらいたいと云う事より自分が最も聞いて確認したかった揺らぎ。

音があった方が静かと感じる

かなり高い比率でこの感想が出た。また、音が止まると耳鳴りが聞こえ、そのほうが五月蝿いという意見もあった。今回の揺らぎ音では、音量が可聴ぎりぎりまでの設定が出来ず、当初の計画より少し大きな音となっていた。耳鳴りが聞こえない程度に音があった方が静かに感じると言うのは、耳鳴りを完全にマスクできる音量であったことを示している。
1/f揺らぎというと何とも「ありがたい」イメージがあるが、内容としては温度揺らぎの増幅であり、全く意味を持たない揺らぎなのである。だから、今回録音は取っていない。(実は20分ほどやってみましたが・・レベルが小さすぎでマトモニ録音できませんでした)仮に録音したものを再生しても、その録音は特別でも何でもなく、装置に電源を入れればいくらでも1/f音を発生させることができる。つまり、記録する意味が無いのだ。

正弦波なのに不快と感じない

通常、連続で正弦波を聞くことはかなりの苦痛を伴う。しかし、アンケートによると浮遊感や静寂、安らぎ等を感じた人が意外なほど多かった。 一人だけ耳に痛いとのコメントをくれた。正しいと思う。私が「プレパラート」展を振り返ってで書いている「死の安らぎ」とは耳が痛いとか苦痛と少し近いかもしれない。

背景と事象の境界

少し長く聞くと音は背景に溶け込んでしまう。
「音の背景とは、無音??」 と考えていたが、今回の実験から「そうとも言えない」と考えるようになった。来場者のアンケートから、「音が聞こえているときの方が静か」という感想が結構多かった。音の背景とは無音と考えていたが実はそうではなく、意味の無い音で埋まったものと考えた方が良い様だ。単にアンプのSNを上げるだけでは不十分で、意味を持った音楽に関係する部分と、意味の無い背景の部分の切り分けを明確にする必要があるのだ。揺らぐ事で自然になる?人は、背景から事象を切り出すのにパターンを見つけて、事象として切り出し認識する。ところが今回の音では特定のパターンが存在しないため、音は聞こえても事象では無いという認識をするのだろう。

意味と無意味の境界

温度揺らぎには意味は無い。この揺らぎには決まったパターンは無く、ゆっくり周期が変化し同じ繰り返しは二度と現れない。確かに音が出ていることは認識できるが、揺らぎには決まった周期やパターンは存在しない。そこから、音は背景として扱われる。背景は意味を持たないから、揺らぎ音に意味付けをすることはできない。聞こえていても、意味が全く無い音となったのである。

背景は人にとって意味の無いモノで無意識のうちにフィルタリングされ、無意味なものとして認識されない。しかし、岡田さんの「M」を中心に置く事で、意味付けをする材料が揃い、歌声や感情といったモノと結びつき感動や驚きを生んだと考えても良いかも知れない。(結局よくわからん)

この作品は何か?

発生した音は私の作品ではない。この音は自然が持っている当たり前のありふれた現象を拡大しただけで、私が意図的に揺らぎを作っているわけではない。人間の意志や操作の全く及ばない自然界そのものを少し覗かせてもらったに過ぎない。「M」を中心に置く前の「死の安らぎ」とはそのような事で、完全な無に近い感覚である。自然界の出来事を人間中心に考え、いろいろと意味を付けるのが人であるが、この揺らぎ音の元となった温度揺らぎに意味は無い。よって音にも意味は無かったのだ。私にとって揺らぎ音は、良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか人らしいことに関係無い、均一で静寂な世界を少し覗かせてくれた。
それでは、何が作品かと言うと、きっと作り上げる最中の思考や作業(いかに手を抜くか)が本当の意味での作品だと思う。この音は自然そのものなので私が作ったものではない。